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早野忠昭 × 菅原小春
早野忠昭

早野忠昭(はやの ただあき)

1958年生まれ。長崎県出身。一般財団法人東京マラソン財団事業担当局長・東京マラソンレースディレクター、日本陸上競技連盟総務企画委員、国際陸上競技連盟ロードランニングコミッション委員、スポーツ庁スポーツ審議会健康スポーツ部会委員、内閣府保険医療政策市民会議委員。1976年インターハイ男子800m全国高校チャンピオン。筑波大学体育専門学群卒業後、高校教論、アシックスボウルダーマネージャー、ニシ・スポーツ常務取締役を歴任。

菅原小春

菅原小春(すがわら こはる)

1992年生まれ、千葉県出身。幼少期から創作ダンスに励み、数々のコンテスト で優勝。高校卒業後に渡米し、独自のダンススタイルを確立する。国内外の人気アーティストの振り付けや、 ダンサーを務める傍ら、有名ブランドの広告、ラジオ、テレビ番組 の出演など多方面で活躍。現在は日本を拠点に、世界各国でワークショップを開催。2019年NHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺(ばなし)〜」にてドラマ初出演。

ランニングとダンスにとっての聖地

早野 ■
僕が選手としての第一線を退いて、別の立場からランニングに関わろうと思ったのは、コロラド州のボウルダーという街に住んだことがきっかけです。ボウルダーは、高収入な仕事に就いている人が多い、ハイソサイエティな街で、同時にランニングタウンなんです。そこに住んでいる人たちは日常の中でカジュアルに走っていて、僕はそれを伝えようとボウルダーから日本の雑誌に『ボウルダー通信』を寄稿したりもしていて。その頃の日本のランニングカルチャーは、まだ有森裕子や高橋尚子のようなランナー像に引っ張られていましたから。
菅原 ■
生活の中にランニングがある街なんですね。
早野 ■
ちなみに、ボウルダーから戻って日本の状況を見た時に「なんか違うな」と感じた思いをコンテンツ化したのが、東京マラソンです。走る喜びを得られるのはもちろんランナーですが、審判員やボランティアの人だって支える喜びを得ることができる。あるいは、沿道で応援する人たちには、感動を分かち合う喜びも。ボウルダーで見た景色を参考にして、様々な角度からの参加の楽しみを作っていきました。ちなみにダンスにおけるボウルダーのような、聖地のような場所はあるんですか?
菅原 ■
どうなんでしょう……そういえば、「アフリカはチャクラが開きすぎちゃうから、小春はまだ行かないほうがいい」って言われていますね(笑)。なので、まだ行ったことはないんですけど、たぶんアフリカが聖地なんだと思います。裸足で土を踏んで、踊って……今まで行ったことのある国の中だと、ブラジルも良かった。
早野 ■
自分のなかでアフリカはまだ禁じていると。
菅原 ■
まだ怖いですね(笑)。

菅原小春

人生、スポーツ、何ごともバランスをとって

早野 ■
僕は、自分に嘘をつけないのが分かっているので、今まで情熱が冷めた時は仕事を変えるようにしてきたんです。菅原さんは、一プレイヤーとしての終わりを意識することはあるんですか?
菅原 ■
これまでも、ダンスを全くやらなかった時期はありますよ。
早野 ■
その頃は何をされてたんです?
菅原 ■
その時はですね、たくさんお酒を飲んでいました(笑)。小さい時から生活がダンス一色で、同年代の子たちが何をして遊んでいるのかも想像がつかないくらい、全く遊んでこなかったんです。だから順番が違うだけで、今が自分にとって遊ぶ時期だと思って、目一杯遊びました。まだ経験していないことがあるなら、やってみるべきだなと。
早野 ■
それは、心の底から楽しめたんですか?
菅原 ■
毎日「何してるんだろうな、私」とは思うんですけどね、楽しかったです(笑)。その時期をきちんと経験したからこそ、心のバランスが取りやすくなりました。馬鹿して羽目を外した時期を経験すると、逆にストイックな自分にも戻れるというか。それまでは、常に身体を研ぎ澄ましていて、バランスを分かっていなかったんですよね。ダンサーって、すごく難しいんです。トレーナーもいないし、演者さんのように監督とか装飾してくれる人がいるわけでもないから、自己プロデュースで自らを作品にしていく必要がある。己の美学を磨いて、それを表現に昇華させるわけだから、とんでもなく面倒くさいことなんですよ。
早野 ■
結果、すごくストイックですよね(笑)。
菅原 ■
今は色んな時期を経て、ちょっとずつ大人になってきたので、バランスも覚えました。人生ちょっとずつ、バランスなんだなって。

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