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早野忠昭 × 和田正人

かつて箱根駅伝にも出場し、陸上の世界のど真ん中にいた和田正人さん。自らの中に線を引いて24歳の若さで実業団を引退し、現在は俳優として活躍されていますが、陸上競技は「完全にやめても、どうでもいいと思えない魅力があるもの」と言います。今回の対談では、和田さんが願い続けた陸上競技界の理想像とJAAF RunLinkが目指す将来像が重なっていることが確認できました。

早野忠昭

早野忠昭(はやの ただあき)

1958年生まれ。長崎県出身。一般財団法人東京マラソン財団事業担当局長・東京マラソンレースディレクター、日本陸上競技連盟総務企画委員、国際陸上競技連盟ロードランニングコミッション委員、スポーツ庁スポーツ審議会健康スポーツ部会委員、内閣府保険医療政策市民会議委員。1976年インターハイ男子800m全国高校チャンピオン。筑波大学体育専門学群卒業後、高校教論、アシックスボウルダーマネージャー、ニシ・スポーツ常務取締役を歴任。

和田正人

和田正人(わだ まさと)

1979年8月25日、高知県出身。ワタナベエンターテインメントに所属し、同事務所の若手男性俳優D-BOYSのメンバーのひとり。現在は俳優業で活躍する。大学では陸上競技部に所属し、2002年の第78回箱根駅伝では復路9区を、区間記録第5位で走破した。当時のベストタイムは10000mが28分56秒00、ハーフマラソンが1時間2分57秒。大学卒業後はNECの実業団に入ったが、2年後に廃部となる。2004年7月に第1回D-BOYSオーディションに出場し、特別賞受賞により同年10月にD-BOYS加入。2005年「ミュージカル テニスの王子様」で本格的に俳優デビューし、最近では平瀬孝夫役でドラマ「陸王」にも出演した。

実業団から俳優業への大転身

早野 ■
箱根を走って実業団入り。その後、俳優業に転身というプロフィールを見る限り、ユニークな人なんだろうなと想像して本日の対談を楽しみにしていました。
和田 ■
大学を卒業してNECの実業団に入りましたが、2年目の春に廃部になったんです。そこできっぱり陸上をやめて俳優の道を目指し始め、1年後の25歳の時に今の事務所に入って仕事を始めました。そこから10年近くまったく走らなかったですね。箱根駅伝を見ることもありませんでした。
早野 ■
すごい決断ですね。
和田 ■
やることをやってきたし、もう自分の中で悔いはないと決めつけたかったんです。大切な人生の時間でしたが、そう決めて断絶しなければ、次のステージに進めないと感じたからなのかなと今では思います。俳優業も、すぐにご飯を食べられるわけではありません。バイトをしなければいけない時期もありました。一方で、同期の陸上選手が稼いでいたり、サラリーマンで安定した生活を手にした地元の知り合いの姿を見ると、自分真逆。将来の確証もないし、収入もない。そんな中で陸上への未練とか、もし陸上生活を続けていたらと思う弱音、後悔が出てくるのが嫌だったんです。教職免許を持っていたので、地元へ帰って高校教師をやるという選択肢もありましたが、しっかり自分の中に線を引いて俳優をやっていくんだと強い信念を持ちました。
早野 ■
競技者としての将来像は、ずっと考えていたのですか?
和田 ■
実業団に入ってから真剣に考え始めましたね。自分は長距離に向いているのか、向いていないのか? 数年走ったら、周囲のトップ選手たちのレベルまで自分は行けるか? 体力の限界と言われる30代前半までに日の丸を背負えるか?
早野 ■
実業団とはいえ、プロの世界ですからね。急に現実と直面したのですね。
和田 ■
はい。それで、自分には無理だという結論が出てしまったんです。1年目は故障が多くて走れない時間、悶々とする時間が多く、余計にいろいろと考えてしまった。自分は階段を1段1段、しっかり登っていくタイプの人間なんです。オリンピックに出る選手たちは、そこを3段飛ばしぐらいで駆け上がって行ける人。同じ期間で比べると、到達できる高さが違うんです。競技寿命が80歳でない限り、自分はそこまで到達できない……。ある意味、廃部になったことが背中を押すきっかけになりました。
早野 ■
長く続けてきたことをやめるには、勇気がいりますからね。
和田 ■
俳優なら歳を重ねながら、1段1段登っていき、生きている以上、上がって行けると思ったんです。僕の遅いスピード感でも上に上がり続けられる。あの映画、誰かに憧れてというのではなくて、僕は人生で選んだんです。長く、ずっと求め続け、登り続けられる生き方ができるのが俳優だ、と。
早野 ■
でも、その世界も厳しいと想像します。今こうして活躍されているというのは努力もされたんでしょうね。
和田 ■
俳優としての努力は惜しまずやってきたつもりです。でも、30歳を過ぎた頃から、どこか充実していないなという思いがありました。良い仕事をいただき始めた時期でもあったんですが、それでもどこか自分の理想とする30歳を過ぎた姿にはなれていなかったし、夢の実現もまだでした。なぜ満たされないと思うのか? 何をやるべきかと思った時、知り合いのミュージシャンに「走れよ」と言われんたです。その人は陸上とは無縁だったけれど、自分を追い込むために毎日走り始めたそうです。そしたらいつしか……言葉が難しいけれど、ジョギングが祈りみたいな作業になり始めた頃から、「俺はこんな仕事をやりたい」「こうなりたい」という願いが、ことごとく叶っていったと言うんです。それを聞いて僕自身も毎日走り続けたら、朝ドラのオーディションに受かったり、目に見えて変化がありました。

和田正人

市民ランナーになってからの気づき

早野 ■
今でも走っているのですか?
和田 ■
この1年ほど、ジョギングを休止中です。俳優業の関係で、身体を少し大きくしたくて、ジムでのトレーニングをしています。ただ、1年前まで5年ほどジョギングを続けてきました。
早野 ■
走るのを再開された時は、身体や精神面に変化があったわけですね。
和田 ■
競技時代の走る目的は、とにかく速く走ることだけで、正直楽しいと思ったことは一度もないんですよ。苦しいし、憂鬱で練習が嫌になったり。喜べる瞬間は自己ベストを出した瞬間だけ、片手ぐらいしかありません。そういうのもあって、一般市民ランナーの人たちが毎日走っているのを見て、何が楽しくて走っているのか不思議に思っていました。
早野 ■
専門にやってきた人は、逆にそう思うんですよね。
和田 ■
そこはすごく興味深かったですよね。自分の仕事に生きるからと友達からすすめられて市民ランナーデビューをしたわけですが、毎日自分がなんとなく決めたコースを走っていると飽きてくるし、競技時代と同じであまり楽しくないなと最初は感じました。その後、半年間ほどジョギングを休む時期があったのですが、そこで初めて気づきました。あ、走っていない時期って心が動いていないなって。結論から言うと、ランニングって心の潤滑油なんですよ。ジョギングをしている日々の中では、心の感度がぜんぜん変わってくるんです。陸王というドラマ出演をしていた時期は、ガッツリ30km走った日もありますし、グラウンドまで行ってインターバルをする日もありました。しんどかったけれど、日常生活は比べものにならないぐらい充実していましたね。これか! 競技者が知らなくて、一般市民ランナーが知っているものはって、そこで気づいたんですよ。
早野 ■
やることをやっているから、ご飯がうまいし、日々の些細なことにも感動もできるんですよね。
和田 ■
週に5日走ると決める。決めてやる、決めてやる、これって自己承認の連続なんですよ。よし、今日もできたぞと、自分をどんどん認めていける連続。それが自信につながっていくんです。他にも僕が気づいていない魅力があるのでしょうし、そういうのをもっと知りたいと思いましたね。

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